まちびわブログ(長浜市びわ商工会)
長浜市びわ地域(旧びわ町)の見どころ、イベントのご紹介
サイクリング!
本日の湖北地方は素晴らしい秋晴れでした。
第7組目の宿泊体験の女性達とサイクリングをしてきました。
当初は地図だけお渡して、いってらっしゃい・・・の予定でしたが、
かなり無理があるので、急遽同行させて頂きました。

姉川の堤防

琵琶湖岸の緑地公園

江戸時代中期の庄屋「中村家」

「中村家」の蔵にあった、切支丹禁止令の立て看板

竹生島の一の鳥居
詳しくは、↓
http://machibiwa.blog130.fc2.com/blog-entry-36.html
良い運動になりました・・・!
第7組目の宿泊体験の女性達とサイクリングをしてきました。
当初は地図だけお渡して、いってらっしゃい・・・の予定でしたが、
かなり無理があるので、急遽同行させて頂きました。

姉川の堤防

琵琶湖岸の緑地公園

江戸時代中期の庄屋「中村家」

「中村家」の蔵にあった、切支丹禁止令の立て看板

竹生島の一の鳥居
詳しくは、↓
http://machibiwa.blog130.fc2.com/blog-entry-36.html
良い運動になりました・・・!
サイクリングマップ⑧
今回は、冨田人形会館です。

びわ地域の北冨田地区に伝わる冨田人形は百数十年の伝統を誇る人形浄瑠璃です。
天保6(1835)年の昔、四国の阿波から人形一座が巡業に訪れたものの、大雪のために客が集まらず、帰りの路銀の代わりに人形のカシラや道具一式を置いていきました。いつまで待っても一座が引き取りにこないので、村人が人形芝居の稽古をするようになったのが冨田人形の始まりといわれています。
その伝統は今でも守られ、年2回の定期公演のほか、県内外でも公演活動が積極的に行われています。最近は、外国からの留学生との交流も盛んになってきています。
平成3年に完成した「冨田人形会館」(見学は要予約)には、人形浄瑠璃の舞台もあるほか、人形や芝居道具も保管されています。


びわ地域の北冨田地区に伝わる冨田人形は百数十年の伝統を誇る人形浄瑠璃です。
天保6(1835)年の昔、四国の阿波から人形一座が巡業に訪れたものの、大雪のために客が集まらず、帰りの路銀の代わりに人形のカシラや道具一式を置いていきました。いつまで待っても一座が引き取りにこないので、村人が人形芝居の稽古をするようになったのが冨田人形の始まりといわれています。
その伝統は今でも守られ、年2回の定期公演のほか、県内外でも公演活動が積極的に行われています。最近は、外国からの留学生との交流も盛んになってきています。
平成3年に完成した「冨田人形会館」(見学は要予約)には、人形浄瑠璃の舞台もあるほか、人形や芝居道具も保管されています。

サイクリングマップ⑦
今回は、びわ中学校のある弓削地区の公園にある銅像です。

この人は、森幸太郎氏です。
森氏は、1905年に当時の竹生村(現長浜市びわ地域)の村長。1917年に38歳で滋賀県会議員となり2期務められました。1936年に衆議院議員総選挙で滋賀県選挙区から立候補して当選されますが、3期目を目指した1942年の衆議院議員総選挙では落選されました。
戦後は鳩山一郎の日本自由党結成に参加して1946年の衆議院議員総選挙に立候補して復活を果たし、以後5期連続(通算7期)務められました。第1次吉田内閣では農林政務次官、第2次吉田内閣では無任所大臣、第3次吉田内閣では農林大臣を務められましたが、後に吉田茂と袂を分かって分党派自由党の結成に参加されました(後に復党)。
1954年、3期目を目指す服部岩吉の対抗馬として衆議院議員を辞職して無所属で滋賀県知事選挙に出馬、日本民主党の支援を受けて当選を果たし、知事在任中は長浜整肢園の設置や「動く県庁」構想など、福祉や県民との対話に力を注がれました。1期で退任した後は自由民主党顧問や全国内水面漁業協同組合連合会名誉会長などを務めるが、1964年、東京都内の病院へ通院中に突如車内において心臓疾患を発して急逝されました。

この人は、森幸太郎氏です。
森氏は、1905年に当時の竹生村(現長浜市びわ地域)の村長。1917年に38歳で滋賀県会議員となり2期務められました。1936年に衆議院議員総選挙で滋賀県選挙区から立候補して当選されますが、3期目を目指した1942年の衆議院議員総選挙では落選されました。
戦後は鳩山一郎の日本自由党結成に参加して1946年の衆議院議員総選挙に立候補して復活を果たし、以後5期連続(通算7期)務められました。第1次吉田内閣では農林政務次官、第2次吉田内閣では無任所大臣、第3次吉田内閣では農林大臣を務められましたが、後に吉田茂と袂を分かって分党派自由党の結成に参加されました(後に復党)。
1954年、3期目を目指す服部岩吉の対抗馬として衆議院議員を辞職して無所属で滋賀県知事選挙に出馬、日本民主党の支援を受けて当選を果たし、知事在任中は長浜整肢園の設置や「動く県庁」構想など、福祉や県民との対話に力を注がれました。1期で退任した後は自由民主党顧問や全国内水面漁業協同組合連合会名誉会長などを務めるが、1964年、東京都内の病院へ通院中に突如車内において心臓疾患を発して急逝されました。